コロナ禍の影響で、実際に街にいって人と気軽に会うような時間が減っている中でふとした瞬間に虚しさを感じていることがある。
今の時代、直接人に会わなくても、オンラインでコミュニケーションはとれる。
ネットショッピングで買い物に困ることもない。しかしなんだか虚しい。
それは五感を使った空間体験が欠如しているせいなのか?
話はそんな簡単なことではないような気がしてきた。
それは、私が死というものを意識するようになってしまったことに起因していると思う。
虚しいことを突き付めて考えていくと私たちは最終的に何も残すことはできないという現実に思い当たる。
例えば桂離宮などの文化財や芸術作品であってもいつかは失われるだろう。太陽にも寿命があるのだから。
私の子孫も必ずいつか滅びるだろう。
「次の世代のために残す」ということではこの虚しさは解消することはできない。
何かに夢中になっているときこのような虚しさが心に入る余地はないが、ふとした瞬間に虚しさは再びやってくる。
きれいなものはずっと続いてほしいし、私は死にたくない。でもそれは不可能な願いだ。
一方で、この意識ではまずいとわかっている。
今、この瞬間にただ与えられているものをキャッチしたいと思っている。
この虚しさを解決するヒントを良寛の詩の中に見いだした。
裏を見せ
表を見せて
散る紅葉かな
地震に耐え、快適で、次の世代まで持続する財産を作ることはあくまで仕事の目的にはならない。
たぶんもっと大切なことがあってそれは、良寛のような幸福な心をお互いに持てるようになることだ。
2021.7.30